エスカレーターの「片側空け」は、本当に速いのか ― 立つ列と歩く列の1 : 1.11
歩く列は立つ列より1.67倍速く進みます。それでも運べる人数は1.11倍にすぎません。間隔が1.5倍に広がるからです。ロンドン地下鉄の実測と自前の計算から、片側空けが成り立つ条件を確かめます。
この記事の要点
- 歩く列は立つ列より約1.67倍速く進みます。しかし1人あたり1段多く空けるため、運べる人数は1.11倍にしかなりません。
- そのため「片側空け」が立ち2列を上回るには、乗る人の半分以上が歩く必要があります。高低差24mのエスカレーターでは約4割と見積もられています。
- ロンドン地下鉄の試行では、片側を空けない運用で通過人数が約27%増えました。同じ前提で計算すると約2割の増加になります。
比率の正体 ― 毎分56人と毎分63人
ロンドン地下鉄のエスカレーターは、速度が毎秒0.75m(毎分45m)です。報告書はこれを踏段の寸法0.4mで割り、足元を通り過ぎる段を毎分112.5段としています。
立ち止まる列では、混雑していても空き段が生じます。乗り込むときのわずかなためらいと、個人空間を保ちたいという気持ちが理由とされます。報告書はこれを「空き段現象」と呼び、2段に1人と見積もっています。すると片側の輸送力は毎分56.25人です。
歩く列はどうでしょうか。歩く速さを毎秒0.5mとすると、対地速度は毎秒1.25m(毎分75m)になります。段数でいえば毎分187.5段です。ただし階段を歩く人は前に2段を空けるとされ、3段に1人となります。すると毎分62.5人です。
なぜ差がつかないのか ― 速さと間隔の綱引き
歩く列のほうが速いのに、運べる人数はほとんど変わりません。理由は単純です。速さが1.67倍になる代わりに、人と人の間隔が1.5倍に広がるからです。
流れる量は「速さ÷間隔」で決まります。歩行はこの2つを同時に押し上げるため、差し引きで1割ほどしか得をしません。片側空けの前提は、この1割に乗る人を十分に集められるかどうかに尽きます。
50%という境目
両側に立てば、どちらの列も毎分56.25人ですから、合計は毎分112.5人です。一方、片側空けでは立ち列が先に埋まります。歩く人の割合をwとすると、通過人数は56.25÷(1−w) と 62.5÷w の小さいほうになります。
この式をwについて解くと、下の境目はちょうど50%です。52.6%を超えると今度は歩行列が先に埋まり、55.6%を超えると立ち2列を下回りはじめます。
| 歩く人の割合 | 通過人数 | 立ち2列との差 |
|---|---|---|
| 20% | 毎分70人 | −38% |
| 40% | 毎分94人 | −17% |
| 50% | 毎分113人 | 同じ |
| 52.6% | 毎分119人 | +5.6% |
| 60% | 毎分104人 | −7% |
片側空けが勝てる範囲は50〜55.6%という狭い窓です。しかも最もうまくいった場合でも、上積みは5.6%にすぎません。なお55.6%を超えて減るのは、歩きたい人が立ち列へ移らないと仮定した場合の話です。
ロンドン地下鉄が確かめたこと
2015年11月下旬から3週間、ロンドン地下鉄はホルボーン駅で「両側に立つ」試行を行いました。この駅のエスカレーターは高低差24mです。駅から出る方向の3台を対象に、1台、2台、3台と週ごとに増やし、係員が歩かずに乗るよう呼びかけました。
歩行を認めた第2週に約12,745人が使った5号機は、立ち止まりのみとした第3週に約16,220人を運びました。増加率は約27%です。混雑時に行っていた入場規制も、以前はほぼ毎日だったのに対し、3週間で1回だけになりました。
歩く人の割合について、報告書は高低差10mで100%、24mで40%という見積もりを置いています。これは高低差10mのカナリー・ワーフ駅での観察をもとにした外挿で、報告書自身が計算用の仮定と述べています。高低差が大きいほど歩く人が減ることは先行研究でも観察されています。
俗説・誤解チェック
この説が成り立つのは、歩く人が半数を超え、かつ6割に届かないときだけです。混雑した長いエスカレーターでは、前提そのものが崩れます。
意識調査の数字も誤解を招きます。日本エレベーター協会の調査では、2019年度に79.1%が「エスカレーターを歩行してしまうことがある」に当てはまると答えました。ただしこれは「歩くことがあるか」への答えです。ある瞬間に歩いている人の割合とは別の数字です。同じ調査では76.8%が「エスカレーターの歩行は、やめたほうがいいと思う」とも答えています。
条件が変われば答えも動きます。日本で広く使われている毎分30mのエスカレーターでは、立ち列と歩行列の輸送力比は1 : 1.33に広がります(歩く速さを毎秒0.5mと仮定した試算)。境目は50〜67%へ広がり、最良の場合は+17%です。遅い機械では、歩行の上積みが大きくなる計算になります。
また、行列ができていない時間帯はこの議論の外です。待ちが生じていなければ、歩く人は単に早く着くだけで、誰の到着も遅らせません。
黄金比研究所の見立て
「片側空け」は、間違った慣習というより、条件のきつい慣習です。乗る人の半分以上が歩き、しかも6割には届かないときだけ得になります。混雑するほど歩かない人が増えるため、いちばん混む場面で前提が外れます。
日本では埼玉県が2021年10月1日、名古屋市が2023年10月1日に、立ち止まって利用するよう求める条例を施行しました。いずれも罰則はありません。安全面の効果については、ホルボーン駅の試行でも事故件数が少なく、統計的な判断はできなかったとされています。
この題材の面白さは、最適な配分が機械の寸法ではなく人の行動で決まる点にあります。設計者が決められるのは毎分112.5段という上限までです。そこから先を決めるのは、その日その駅に集まった人が歩くか立つかという割合です。比率の最適解が、測るたびに動く種類の問題だといえます。
出典・参考資料
- Pilot for Standing on Both Sides of Escalators(C. Harrison, N. Kukadia, P. Stoneman, G. Dyer)6th Symposium on Lift & Escalator Technologies / London Underground
- エスカレーターの安全利用について(埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例)埼玉県
- 名古屋市エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例名古屋市
- 「やさしい思いやりをありがとう」キャンペーン ニュースリリース(エスカレーター利用に関する意識調査を含む)一般社団法人日本エレベーター協会
- エスカレーターの安全性に関する法令、規格、基準と行政機関等の取組(資料1-3)東京都消費生活対策審議会
- エスカレーターの概要(種類・仕様、定格速度。資料1-2)東京都消費生活対策審議会