黄金比研究所Golden Ratio Lab
1:5900 感度係数 K
もうひとつの最適比

核時計は、なぜ物理定数のゆらぎに鋭いのか ― 打ち消し残りが生む5900倍

原子核が出す光はふつう高すぎて、レーザーが届きません。トリウム229だけは約8.36電子ボルト。MeV規模の力がほぼ打ち消し合った「残り」です。2026年10月、この比率が時計になりました。

2026年10月26日文・黄金比研究所編集部

打ち消し残りが、感度を約5900倍にする① 原子核のなかでは大きな量が打ち消し合う+0.203Q₀ の項+−0.154⟨r²⟩ の項=+0.049打ち消し残り単位:MeV(100万電子ボルト)。クーロン側の寄与の差。② その残りの、さらに約5900分の1が遷移0.049 MeV = 49,000 eV8.36 eV(この帯の約5900分の1)同じ縮尺では線にもならない幅です。原子時計(Yb の E3)K = −6核時計(²²⁹Th)K = 5900(2300)同じ定数の変化が、約5900倍の周波数ずれとして現れます。K は感度係数。5900 は微細構造定数αについての値で、強い力側の係数はαと同程度と予想されますが未計算です。図:黄金比研究所
MeV規模のクーロン寄与がほぼ打ち消し合い、残った0.049 MeVが遷移エネルギー8.36 eVの約5900倍にあたる。

この記事の要点

  • トリウム229の原子核は、約8.36電子ボルトという桁違いに低いエネルギーで励起します。レーザーの光で直接たたける原子核は、今のところこれだけとされています。
  • その8.36電子ボルトは、MeV(100万電子ボルト)規模の大きな寄与がほぼ打ち消し合った「残り」です。残りが小さいほど、物理定数のわずかな変化が相対的に大きく見えます。
  • 2026年10月7日、二つのチームがこれを時計として動かしました。微細構造定数αに対する感度係数は K = 5900(2300) と測られており、原子時計で最も感度の高い遷移と比べても約3桁の改善にあたるとされます。

比率の正体 ― 8.36 eV という「打ち消し残り」

原子核が出す光は、ふつう途方もなく高いエネルギーを持ちます。ガンマ線がその代表で、数万から数百万電子ボルトに達します。レーザーで届く範囲ではありません。

ところがトリウム229(229Th)だけは事情が違います。この原子核の第一励起状態は、基底状態より8.355733554021電子ボルトだけ高いところにあります。2024年に光周波数コムとストロンチウム87の原子時計を組み合わせて測られた値です。

8.36電子ボルトは、紫外線の光子1個分のエネルギーです。波長に直すと148.3822ナノメートル。真空紫外(VUV)と呼ばれる帯域で、扱いは難しいものの、レーザーで作れる範囲に入っています。レーザー分光で直接たたける核遷移は、現在知られているなかでこれだけだとされています。

なぜこれほど低いのか。原子核のなかでは、陽子同士が電気で反発する力(クーロン力)と、核子を結びつける強い力が、それぞれ100万電子ボルト規模で働いています。トリウム229の二つの状態では、この大きな寄与が偶然ほとんど同じ大きさになり、差し引きの結果として8.36電子ボルトだけが残ります。

原子核全体の結合エネルギーは約1748 MeV(編集部の概算)。8.36 eV はその約2億分の1にあたります。山の高さを測り、その頂上に置いた小石の高さを問題にするような比率です。

なぜ「残りが小さい」と感度が上がるのか

ここが比率の話になります。大きさ A の量と、ほぼ同じ大きさの量が打ち消し合って、残り E ができているとします。定数が変わって A が 0.01% 動くと、残り E は 0.01% ではなく、A の 0.01% 分だけ動きます。

ΔE / E = (A / E) × (Δα / α)A は打ち消し合う前の大きさ、E は残った遷移エネルギー。A が大きく E が小さいほど、同じ定数変化が大きな周波数ずれとして現れます。この A/E が「感度係数 K」です。

綱引きで考えると分かりやすいかもしれません。互角の二人が引き合い、綱の印はほぼ中央で止まっています。片方の力が1%増えれば、印は大きく動きます。元の「ずれ」がほぼゼロだったからです。

この増幅をトリウム229について最初に指摘したのは、2006年のフラムバウムの論文です。当時は遷移エネルギーが3.5±1.0電子ボルトと思われていましたが、1.4 MeV規模の核内の量と比べて5〜6桁の増幅があると見積もりました。原子時計側の感度係数は、最も大きいイッテルビウムのE3遷移でも K = −6 とされます。この差がそのまま観測能力の差になります。

約5900倍という数字の中身

その後、増幅の大きさは実測にもとづいて詰められました。2025年のビークスらの論文は、クーロン力側の寄与の差を次のように分解しています。

項目値
四重極モーメント(Q₀)の項+0.203(4) MeV
電荷半径(⟨r²⟩)の項−0.154(19) MeV
差し引き(クーロン側の残り)+0.049(19) MeV
実際の遷移エネルギー(2024年測定)8.355733554021(8) eV
比(0.049 MeV ÷ 8.36 eV)約 5900

0.049 MeV は49,000電子ボルトです。これを8.36電子ボルトで割ると約5864。同論文の感度係数 K = 5900(2300) と、桁も値もそろいます。つまり5900という数字は、「打ち消される前の大きさ」と「残った大きさ」の比そのものです。

注意したいのは、これがα(電気の側)についての値だという点です。強い力の側、つまりクォーク質量やΛQCDに対する係数は、ウィーンの論文がαと同程度になると予想するにとどめ、「現時点では正確に計算できない」と明記しています。2006年のフラムバウムの見積もりはさらに大きな係数を示していますが、核内のパラメータが分かっていないため確定していません。

50年かけて8.36 eVに辿り着いた

この比率を使うには、残りの値を正確に知る必要がありました。測定史はそのまま精度の歴史です。1976年の上限「100電子ボルト以下」から始まり、1994年に3.5±1.0電子ボルト、2007年に7.6±0.5電子ボルト、2019年に8.28±0.17電子ボルト、2023年に8.338(24)電子ボルト。そして2024年、レーザー分光と光周波数コムによって小数第12位まで決まりました。

2026年10月7日にNatureに載った二つの論文は、この値を「測る」段階から「使う」段階へ進めました。ウィーン工科大学とドイツ連邦物理技術研究所(PTB)のチームは、1187ナノメートルのレーザーを3段の周波数2倍化で8倍にし、148ナノメートルの真空紫外光を作って、トリウム229を混ぜた直径3.1ミリ・長さ4.2ミリのフッ化カルシウム結晶に当てました。結晶中の原子核は約2×1017個(編集部の概算)。吸収線の両肩を交互に探って中心からのずれを打ち消す帰還回路を組み、室温で1日連続運転しました。

同じ日に公開された北京を拠点とする中国のチームの論文は、連続波の真空紫外レーザーを核の遷移(2個の結晶のうちTS1結晶の「line b」)に固定し、周波数を2,020,407,298,798.635 kHz(統計誤差20 kHz、系統誤差185 kHz)と報告しました。系統誤差は相対で9.2×10⁻¹¹にあたります(編集部の計算)。二つの結晶のあいだの差は2.8(6)×10⁻¹³で、固体中の歪みが課題として残ります。

誤解チェック ― もう原子時計を超えたのか

「核時計が完成したのだから、原子時計より正確な時計ができた」

そうではありません。安定度(周波数のばらつきが平均化でどこまで下がるか)は、ウィーンの装置が3×10⁻¹²/√(τ/s)、北京の装置が5×10⁻¹³/√(τ/s)です。1日(86,400秒)平均しても10⁻¹⁴から10⁻¹⁵の台にとどまります(編集部の計算)。最良の光原子時計には届いていないと、論文自身が述べています。

ただしウィーンの論文は、線幅を1 kHz程度に絞り、高安定度のキャビティで真空紫外光を100ピコワット得られれば10⁻¹⁶/√(τ/s)に達し、最先端の原子時計と並ぶと見積もっています。また暗黒物質の探索では、光子との結合は最良の原子時計と同等の制限にとどまる一方、強い力との結合では既存の比較より100〜1000倍深く踏み込んだとしています。約23時間のデータでは、周波数の線形ドリフトは (2±4)×10⁻¹⁴/日で、ゼロと矛盾しませんでした。

もうひとつ。この打ち消し合いは偶然であって、設計で作り出した比率ではありません。現在知られている核種のなかに、同じ条件をそなえたものは見つかっていません。だからトリウム229が特別なのです。

黄金比研究所の見立て

この回の比率は、1 : 5900という「残りの比」です。形の美しさを決める比率ではなく、測定の鋭さを決める比率でした。注目したいのは向きです。ふつう測定では量が大きいほど扱いやすいのに、ここでは差がゼロに近いことが価値になります。

同じ仕組みは身近にもあります。ノギスのバーニヤ目盛りは、わずかに違う二つの目盛りの差を読んで精度を稼ぎます。二つの音の「うなり」も、周波数の差だけを聞こえる速さまで引き下げる仕掛けです。差を取ると情報が減るようですが、ほぼ釣り合った量どうしなら、むしろ分解能が上がります。

トリウム229がやっているのは、自然がたまたま用意したバーニヤ目盛りを読むことです。100万電子ボルト規模の二つの力が、電子ボルト単位まで接近した。その幸運な比率のおかげで、物理定数が変化しているかという問いに、約5900倍の倍率で近づけます。装置の精度ではなく比率が精度を生んでいる点が、この研究のいちばん面白いところだと考えます。

出典・参考資料

  1. A thorium-229 optical nuclear clock with feedback loopNature (2026-10-07)
  2. A nuclear clock synchronized to 229ThNature (2026-10-07)
  3. Fine-structure constant sensitivity of the Th-229 nuclear clock transitionNature Communications (2025-10-15)
  4. Enhanced effect of temporal variation of the fine structure constant and strong interaction in 229ThV. V. Flambaum, arXiv (2006)
  5. The nuclear clock has begun tickingPTB / EurekAlert! (2026-10-07)
  6. The 229Th Isomer: Nuclear Structure, Clocks, and Tests of Fundamental PhysicsarXiv review (2026)