ピアノのオクターブは、なぜ2:1より広く調律されるのか ― 弦の硬さが左右する伸ばし幅
ピアノの調律師は、高い音を楽譜どおりの高さにしません。オクターブを2:1よりわずかに広く取ります。手抜きではなく、弦に硬さがあるために倍音が整数倍からずれる、その分を補う作業です。どれだけ広げるかは弦の寸法で決まります。
この記事の要点
- ピアノの弦には曲げに対する硬さがあり、倍音の周波数が基音の整数倍より高くずれます。このずれの大きさは B という一つの数で表されます。
- 調律師は音どうしのうなりを消すため、倍音を合わせにいきます。その結果、オクターブは 2:1 よりわずかに広く調律されます。
- 伸ばし幅は中音域では1セント未満ですが、長さの割に太い最高音域の弦では、1オクターブあたり25セント規模になります。
比率の正体:オクターブは2:1、ピアノの弦は2:1にならない
オクターブは周波数の比が 2:1 です。これは定義であり、動きません。ところが実際のピアノは、高音側を 2:1 よりわずかに高く、低音側をわずかに低く調律します。弦が1本ずつ狂っているのではなく、鍵盤の端に向かって系統的にずれていきます。
原因は弦の硬さです。理想の弦は曲げに対して無抵抗で、倍音の周波数はきれいに基音の整数倍(1:2:3:4…)になります。現実の鋼線は曲げに逆らうので、復元力が少し強くなり、倍音がすべて上に押し上げられます。
なぜ伸ばすのか:倍音どうしを合わせるという仕組み
調律は、2つの音を同時に鳴らしてうなりが消える点を探す作業です。このとき耳が頼りにするのは基音ではなく、重なり合う倍音です。低い音の第2倍音と高い音の第1倍音をそろえる方法を 2:1 のオクターブ、低い音の第4倍音と高い音の第2倍音をそろえる方法を 4:2 のオクターブと呼びます。さらに第6倍音と第3倍音をそろえる 6:3 を使えば、伸び幅はもっと大きくなります。
ここに先ほどのずれが効いてきます。低い音の第2倍音は、基音のちょうど2倍より上にあります。その倍音に高い音を合わせれば、高い音の基音は自動的に 2:1 より高い位置に置かれます。伸ばしの向きと規模を要求しているのは、調律師の趣味ではなく弦の物理です。
低音側が逆に下がるのも、同じ理屈です。調律は中音域を基準に上下へ広げていきます。下へ向かうとき、低い音は「その第2倍音が、上の音の基音と合う位置」に置かれます。低い音の倍音は上にずれているので、基音は 2:1 の位置より下げざるを得ません。鍵盤を下るたびにこれが積み重なり、最低音域は平均律の計算値より低く落ち着きます。
どれだけ伸びるのか:数字で確かめる
2:1 のオクターブで合わせたときの伸び幅は、上の式から計算できます。低い音の第2倍音と第1倍音の比を取ればよく、√(1+4B) ÷ √(1+B) をセントに直すだけです。編集部で計算した結果が次の表です。
| 弦の硬さ B | 1オクターブの伸び |
|---|---|
| 0.0001(中音域の実測値の目安) | 0.26 セント |
| 0.0003 | 0.78 セント |
| 0.001(アップライトの低音弦の上限の目安) | 2.6 セント |
| 0.003 | 7.7 セント |
| 0.01(最高音域の目安) | 25.3 セント |
最高音域の25.3セントは、周波数の比に直せば 1 : 2.03 です。2:1 からの差はわずか1.5%ですが、半音の4分の1にあたります。これは鍵盤全体の累積ではなく、1オクターブ区間だけの値です。
B は弦の寸法から決まります。張力を基本周波数で置き換えて整理すると、B は直径の2乗に比例し、弦の長さの4乗に反比例します(低音弦のように巻線のある弦では、効くのは芯線の太さです)。最高音域の弦が極端に硬くなるのは、太さをほとんど減らせないまま、長さを中音域の10分の1程度まで詰めるからです。
実測値では、中音域の B は 0.0001 前後、アップライトの低音弦で 0.001 程度まで、最高音域では 0.01 程度に達するとされます。中音域の0.26セントは、健康な成人の音の高さの聞き分け能力(1kHzの純音で中央値14.5セント)をはるかに下回ります。一方、最高音域の25.3セントはその閾値を上回ります。伸ばしが耳に見えてくるのは鍵盤の両端だけ、というわけです。
1938年の測定と、2015年の説明
この現象を数字で押さえたのは、1938年のレイルズバック(O. L. Railsback)です。調律直後のピアノをクロマチック・ストロボで測り、複数の調律師の仕事を比べました。結論は、偶発的な誤差とは別に、オクターブが系統的に広く取られており、その傾向が鍵盤の上端と下端で強くなるというものでした。鍵盤全体の平均的なずれを描いた曲線は、いまも「レイルズバックの伸び」と呼ばれています。
では、その幅はどこで決まるのか。2015年、ジョルダーノ(N. Giordano)は、2つの純音が同時に鳴ったときの不協和感についての知見を、実測したピアノの倍音構成に当てはめました。不協和が最小になる調律を計算すると、レイルズバックの曲線とほぼ重なったと報告しています(ただし最低音域では一致が弱いとしています)。つまり伸ばし幅は、慣習ではなく「いちばん濁らない配分」として説明がつくことになります。
俗説・誤解チェック
どちらも正確ではありません。伸ばしは弦の硬さという測れる量から向きと規模が決まります。ただし、どの倍音をそろえるか(2:1 か 4:2 か 6:3 か)で幅は変わり、そこには調律師の判断が残ります。ある研究は、全体の大きさは「厳密に定まるものではなく、むしろ好みの問題」と書いています。物理が範囲を決め、人がその中で選ぶ、という二段構えです。
もう一つの誤解は、これを基準ピッチの問題と混同することです。A=440Hzをどこに置くかは基点の取り決めであり、倍音のずれとは別の話です。基準をいくら動かしても、弦の硬さは変わりません。
黄金比研究所の見立て
オクターブ 2:1 は数学の定義として完璧です。それでも実物の楽器では、2:1 をそのまま守るほうが濁って聞こえます。素材に硬さがあるという、たった一つの現実が入るだけで、最適な比が定義からずれるのです。
興味深いのは、そのずれ幅が設計図ではなく個々の弦の寸法に書き込まれている点です。同じ曲を同じ平均律で弾いても、楽器ごとに最適な数値は違います。比率を「決め打ちの正解」ではなく「条件から毎回出てくる答え」として扱う、良い例だと考えます。
出典・参考資料
- O. L. Railsback「Scale Temperament as Applied to Piano Tuning」Journal of the Acoustical Society of America 9(3_Supplement), 274 (1938)(学会発表要旨)Acoustical Society of America
- N. Giordano「Explaining the Railsback stretch in terms of the inharmonicity of piano tones and sensory dissonance」JASA 138(4), 2359-2366 (2015), doi:10.1121/1.4931439Acoustical Society of America
- J.-P. Dalmont「Piano bass strings with reduced inharmonicity: theory and experiments」Acta Acustica 5, 9 (2021), doi:10.1051/aacus/2021002EDP Sciences
- H. Hinrichsen「Entropy-based tuning of musical instruments」arXiv:1203.5101 (2012)arXiv
- Smith et al.「Factors affecting pitch discrimination performance in a cohort of extensively phenotyped healthy volunteers」Scientific Reports 7:16480 (2017), doi:10.1038/s41598-017-16526-8Nature Portfolio
- Piano acoustics(補助)Wikipedia