ダ・ヴィンチの人体図は黄金比で描かれたのか ― 正方形と円の実測が示す1 : 1.65
レオナルドの素描を実測すると、正方形の一辺181.5mmに対して円の半径は110mm。比はちょうど1対1.65で、黄金比1.618ではありません。黄金比で作図した円は4mmほど大きくなります。では、何の比だと言えるのでしょうか。
この記事の要点
- 素描を実測すると、正方形の一辺は181.5mm、円の半径は110mm。比はちょうど1対1.65で、黄金比1.618ではありません。
- 黄金比で作図すると円の直径は約224mm。実測の220.0mmより4mmほど大きく、ずれは約2%になります。
- 2025年には「1.633」という別の数が提案されました。ただし正八角形や2つのレンズ形を使う作図も、実測との差は1mm以内です。
比率の正体 ― 一辺と半径の1 : 1.65
レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」は、両手両足を広げた人を正方形と円で囲んだ素描です。この2つの図形をどう決めたのかが、長く論じられてきました。
コインブラ大学のヴィトール・ムルティーニョは、2015年の論文で素描の寸法を示しています。正方形の一辺は181.5mm、円の半径は110mmです。割ると、比は1.65になります。
円は正方形の下辺に接しているので、この半径は「足の裏からへそまでの高さ」にあたります。つまりこの比は、「へそが身長をどこで分けるか」という、よく語られる数字と同じものです。
黄金比の作図では、円が4mm大きくなる
では黄金比で作図すると、どうなるでしょうか。一辺181.5mmを1.618で割ると、半径は112.2mm。直径は224.3mmです。実測の220.0mmより4mmほど大きくなります。
ムルティーニョは、ロッコ・シニスガッリが広めた黄金比の作図を検討して直径224.5mmを得ており、レオナルドのように有能な幾何学者にとっては誤差が大きすぎる、と述べています。紙の上の4mmは、ペンの線よりはるかに太い差です。
ムルティーニョは代わりに、2つのレンズ形(ベシカ・ピスキス)を縦横に組む作図を提案しました。直径は220.7mmです。ライオネル・マーチが挙げた正八角形による作図も219.1mmになります。どちらも実測との差は1mm以内で、定規とコンパスだけで描けます。
2025年に出た「1.633」という提案
2025年、ロンドンの歯科医で独立研究者のロリー・マック・スウィーニーが『Journal of Mathematics and the Arts』に論文を発表しました。レオナルド自身が「脚のあいだの空間は正三角形になる」と書き込んでいる点を作図の指示として読み直し、そこから一辺と半径の比1.64〜1.65を導いたとされます。
そして彼は、この値が1.633に近いことを指摘しました。この数で作図すると直径は222.3mm。実測との差は2.3mm(1.0%)で、黄金比より確かに近づきます。
| 作図の根拠 | 比 | 円の直径 | 実測との差 |
|---|---|---|---|
| 実測値 | 1.650 | 220.0mm | ― |
| 二重ベシカ・ピスキス | ― | 220.7mm | +0.7mm |
| 正八角形 | ― | 219.1mm | −0.9mm |
| 正四面体の比 | 1.633 | 222.3mm | +2.3mm |
| 黄金比 | 1.618 | 224.3mm | +4.3mm |
| ウィトルウィウスの比例 | 1.600 | 226.8mm | +6.8mm |
1.633はどこから来た数か
1.633という数そのものは、あいまいな数ではありません。正四面体の辺の長さを、外接球の半径で割った値です。
同じ数は、六方最密充填の理想的な軸比(c/a)としても知られています。球を最も詰めて並べたときの、層の重なり方を表す値です。ただし実際の金属では、マグネシウムが1.624、チタンが1.588、ベリリウムが1.567と、理想値から外れます。
マック・スウィーニーが引いたボンウィル三角形も、厳密な正三角形ではありません。2026年に『BMC Oral Health』へ出た研究では、成人109人をCBCTで測り、手術を予定しない55人で3辺の平均が101.73mm、101.98mm、103.49mmでした。最長と最短で1.76mm(1.7%)違います。
俗説・誤解チェック
「へそは身長を黄金比に分ける」という話はよく聞きます。しかしウィトルウィウスが『建築について』第3書第1章で円と正方形について書いているのは、へそが円の中心であることと、両手を広げた幅が身長に等しいことだけです。
同じ章に並ぶ数字は、顔が身長の10分の1、頭が8分の1、足が6分の1、肘から指先までが4分の1といった整数の分数です。黄金比のような無理数は、この章には出てきません。
黄金比研究所の見立て
この素描に黄金比は使われていない、と考えるのが素直です。実測1.65に対して黄金比1.618は2%ずれ、そのずれは紙の上で4mmあります。見分けられない差ではありません。
では1.633なのか。これも決め手にはなりません。差は2.3mmまで縮みますが、正八角形も二重ベシカ・ピスキスも1mm以内です。特別な数を持ち出さなくても、同じ図は描けてしまいます。ただし、どの作図が最も近いかを0.1mm単位で競わせるのも無理があります。500年前のインクの線幅と紙の伸縮が、その差と同じくらいあるからです。
ここに教訓があります。1.6から1.65のあいだには、ウィトルウィウスの比例1.600、黄金比1.618、正四面体比1.633が、わずか3%の幅に並んでいます。身長175cmの人なら、へその高さにして約3.3cmの差です。狭い帯に候補が密集しているとき、実測値のそばにある数を拾ってきて「これだ」と言うのは簡単です。そして、それはたいてい証明になりません。
出典・参考資料
- Leonardo's Vitruvian Man Drawing: A New Interpretation Looking at Leonardo's Geometric ConstructionsVitor Murtinho, Nexus Network Journal 17(2), 507-524, Springer Basel, 2015(doi:10.1007/s00004-015-0247-7)
- Leonardo's Vitruvian Man: modern craniofacial anatomical analysis reveals a possible solution to the 500-year-old mysteryRory Mac Sweeney, Journal of Mathematics and the Arts 19(1-2), 42-54, 2025(doi:10.1080/17513472.2025.2507568)
- The Ten Books on Architecture 3.1.2(ウィトルウィウス『建築について』第3書第1章・身体各部の分数)Vitruvius / M. H. Morgan 訳, Lexundria
- The Ten Books on Architecture 3.1.3(同・へそを中心とする円と、身長に等しい正方形)Vitruvius / M. H. Morgan 訳, Lexundria
- Revealing mandibular asymmetry in orthognathic surgery patients via Bonwill triangle morphology: a retrospective cross-sectional studyBMC Oral Health 26, 2026(doi:10.1186/s12903-026-08991-3)
- Hexagonal close-packed(六方最密充填の理想軸比と実在金属のc/a)Graz University of Technology, Solid State Physics